南三陸町と陸前高田市に行ってきました。

もう2ヶ月と20日もたつというのに、まだまだ、どこまでもどこまでも瓦礫の山が続いていることとか。
「町とか、海とか、家とか地域とか暮らしとか、そういうものもまた“死ぬ”ってことがあるんだな…」と思ったこととか。
それを見ても、悲しいとか悔しいとかいう感情がにわかには沸いてこなくて、しいて言えば、ただただ、“虚”というイメージしか感じられなかったこととか。
いまだに水道が使えない避難所とか。
両親を失って、地域の人に見守られながら避難所生活を続けている幼稚園児や小学生とか。
町が見渡せる高台にテントを張って寝起きして、地域の家に泥棒や不審者が出入りしないかどうか自主的に見張っているらしきおじさんがいたことだとか。
自衛官も警察官も、全国からたくさん派遣されて来ているはずなのに、あまりにも被災の現場が広すぎるので、ぽつん…ぽつん…としかいないように見えることとか。
そういう方々が土砂降りの中で黙々と作業している姿とか。
自衛隊がテントを設営して寝起きしている場所が、(当たり前といえば当たり前なのだろうけど)避難所よりもはるかに不便で過酷な環境であることとか。
公民館で内職のアルバイトの説明会をした時にお会いした女性が、ご主人と小学1年生のお子さんを亡くされ、ご自身は避難所で生活されていることだとか。
実は、震災後の彼女の様子を見ていた近所の方々が見かねて、町の職員の方に「なにか仕事を世話してやってくれないか?なんでもいいから、手や体を動かして、その間だけでも余計なことを考えなくて済むように」と頼み込んで、それで彼女があの場にやってきたらしいことだとか。
私が行く数日前、現地で、瓦礫の下から殉職した警察官の遺体が発見されたことだとか。その方は震災時、地域の住民の避難を誘導していた姿を目撃されたのが最後だったという話だとか。
死者や行方不明者の数字が、あまりにも大きな数で、いつのまにか“1万”“2万”という固まりでとらえてしまっていたのだけど、その中のお1人お1人に家族や友人がいて、その方がいなくなったことに多くの方々が深く傷ついて涙を流しているのだ…ということを改めて感じたことだとか。
それを考えると、なんと多くの苦しみや悲しみがあの土地に充満し、漂っていることか…という事実に圧倒されそうになることだとか。
どう見ても全然人手が足りていない過酷な勤務状況に比べて、あまりにも明るくて前向きなイメージの「警察官募集」のポスターが貼ってあったことだとか。
被災された方々の多くが、被災直後に辛かったことや、いま現在辛いと思っていることなどを話す様子を見て、「本当はまだまだ語り足りないし、怒り足りないし、泣き足りないんだろうな…。でも、周囲はみんな被災者なので、話す相手も、泣いたり怒ったりする場所もないんだろうな…」と感じたことだとか。
じゃあ、せめて、自分は心身ともに元気でいて、彼らの話を聞いたり、少しでも生活の足しになるような仕掛けを作ったりしていかなくては…と思ったこととか。
南三陸町の復興市(福興市)にボランティアに来ていた方の中に、阪神大震災の直後、私が炊き出しに行っていた神戸市長田区の避難所近辺の方が偶然いらっしゃって、当時から復興までの道のりについて少しだけどお話しを伺うことが出来たこととか。
その方が、「町は復興しても、人は完全には元気にはなれない。いつまでも落ち込んでいてもしょうがないから元気なふりをしているだけ。あれだけの目に遭って、大事な人を失って、その傷が消えることなんてない。でも、残された人間は生きていかなくちゃならない。だからみんなこうやって動いてるんだよね」と涙ぐんで話してくださったことだとか。
ものすごく慌ただしいスケジュールの出張の中で、気仙沼で被災した友人と間一髪のタイミングで再会して(彼女がその場に到着したその瞬間、私はその場を出発するところだった)で、たった3分ほどだけど一緒にいて元気な顔を見られたことだとか。
もしも会えたら、あのことを話して、あれを渡して…と考えていたはずなのに、顔を見たらぶわーっと涙が溢れてきて、渡すはずのものをどこにしまったのか分からなくなった上、全然たいしたことを話せないまま出発の時間になってしまったことだとか。
震災をくぐり抜けて疲れ切っているはずなのに、彼女が以前よりもずっと綺麗で、なにか吹っ切れたような、一段ステージが上がったような、観音さまみたいな顔になっていたことだとか。
その彼女が、お母様手作りの蕗と竹の子の煮物だの、エビスビールだのを差し入れしてくれて、後から「被災者に差し入れされるって、珍しいヤツだな」と笑いのネタにされたことだとか。
陸前高田で八木澤商店の会長夫人・光枝さん(公私ともに親しくさせていただいていた)と震災後はじめて顔を合わせたとき、やっぱり泣けてきてしまって、しばらくは何も話ができず、抱き合って泣いているだけだったこととか。
私が、頼りない新米バイヤーだった頃に、ガチガチに緊張してお邪魔した、懐かしい懐かしい、あの素晴らしい八木澤の醸造蔵が、あとかたもなく消えてしまったことだとか。
でも、あの時に迎えてくれた和義さん・光枝さんご夫妻は生きててくれたこととか。
八木澤商店のベテラン社員さん(愛称・黒まめ)に再会したとたん、ずっと淡々と気丈にしていた黒まめが泣き崩れたことだとか。
一通り泣いて、泣き止んだ後も、黒まめがずっとずっと私の手を握ったままだったこととか。
その黒まめが、「『八木澤商店の社員さんはいつも前向きで元気だね』って、いろんなところでいろんな方々に声をかけていただいているうちに、いつのまにか、『そんなふうに振る舞わなくちゃいけないんだ』…って自分でも思い込んで、無意識のうちに演技していたのかもしれない」とつぶやいたことだとか。
マイミクさんが、「生き延びるだけで精一杯という時期を過ぎた頃だから、ほんの少しでも女子っぽい時間を持って、和んでいただけますように」と、八木澤の女子社員の方々用にハンドクリームとリップバームをたくさん持たせてくれたこととか。
光枝さんも黒まめも、そのことをとても喜んでくれたことだとか。
仕事で繰り返しお邪魔した場所や、出張で来た時に気に入って夏休みに友人たちとプライベートで旅行に来た場所などが、どこもかしこも同じような瓦礫の山で、なにもかも無くなっていて、“思い出”をどんなふうに思い出したりしまっておいたりしたらいいものか、一瞬混乱してしまったことだとか。
「あとほんの数センチで津波にのまれただろうに…」というギリギリの場所に残されたご神木を見たこととか。
…色々あった3日間でした。そして、自分がこれからやるべきことをたくさん見つけて持ち帰ってきました。
これまで、さだまさしの歌を自ら聴くようなことはあまりなかったのだけれど(「道化師のソネット」と「秋桜」は名曲だと思ってたくらいで)、「町とか海とかも死ぬんだな…」と思いながら、瓦礫の山や自衛官の姿を見ていた時に、ふと、「防人の詩」が浮かんできて、そうか、あの歌詞は、こういうことを言っていたのか……と、長い年月を経て、いまようやく分かったような気がしました。









この記事へのコメント
なにもかも、突然もぎ取られて行った人々の思い。
戦争は(日本においては)過去の歴史かもしれないけど、今の現代に戦争時中と同じような思いをしてしまう人がいるなんて。
と、胸がつまります。
皆様の健康と幸せを心から願わずにはいれません。
政府のあり方を見ていると戦時中そのもの、
それでも本当の戦時中はある程度等しくその苦を国民が背負っていたのではないかと思うのですが、
今は、被災地だけがその苦しみを背負わされているのだと思うと、苦しいです。
この先どのような日本になっていくのか見当がつかず、復興への支援ができる日本でいられるのか・・。
自分の出来る事を明確にして、やっていく、しかなのでしょうか。
校舎に掲げられた「希望」は持ち続けていたいです。
写真を見て、あらためで被害の大きさを感じました。
僕のいるS市では、避難所にいた人も、無事に仮設住宅に移れたようですが、こちらの方はまだまだ大変ですね。
何かできることはないかと、雀の涙ほどですが義援金を送ったり漫画本を送ったりしています。これも長く続けないといけませんね。
昨日、さださんが被災地で歌っている映像が流れていました。子供達の笑顔が印象的でした。こんな中でも、小さな子供達の笑顔は救いですね。
そして伝えてくれてありがとう。
やっぱりこうしてちりんちゃんに伝えてもらうとテレビで見るよりも身近にそして現地の状況がとてもよく伝わってきたように思います。
読んでいても泣けてきて仕方ありません。
それぞれに傷を背負ってのこれからの人生。
一体どうしたらもっと気持ちを楽にして生きていかれるのでしょうか。
私には募金を通して復興をお手伝いすることくらいしかできません。
でも心にあの日のことを刻み込んで忘れずにいつまでも助けていこうと思いました。
もうこんなに悲しい事はおこらないで欲しい。本当に。
英語教師時代に子供のメンタルが凄く気になりだして、今スクールカウンセラー目指してて…。
こんな私にも力になれる事を探して頑張ります。
向こうにいる間よりも、帰ってきてからの方が、いろんな思いがこみ上げてきています。1人になって、現地で見聞きしたものを思いだすと、後から後から涙が出てくるんです。
テレビでは、芸能人が避難所をたずねて現地の方々と楽しいひとときを過ごしたとか、明るい話題が続々とニュースになっているけれど、現実は、もっともっと、ずっとずっと、過酷でした。
他のボランティアさんや関係者の方々にお話をうかがうと、気持ちを整理するのに1ヶ月くらいかかるという人が多いようです。
泣いてるばかり、凹んでるばかりでなく、自分に出来ることを具体的にやっていこうと思います。それは現地のためばかりでなく、あの光景を見て以来、どこか弱ってしまった自分自身の癒やしにもつながるような気がしています。
家電品(美品なら中古可)、消耗品(トイレットペーパー・生理用品・お掃除用品・ティッシュペーパー 他)、薬品、水道の使えない場所で便利なもの(ウェットティッシュや水のいらないシャンプーなど)、文房具や事務用品など、提供していただける方がいらっしゃいましたら、メールででもご一報ください。よろしくお願いします。
どういう形でご協力できますでしょうか。
日赤以外にもいろいろな団体がありますし、そういう団体を通さなくても、知り合いに託して被災者に直接手渡してもらうという方法もありますよね。
さくさんが一番支援したいのは、どんな方でしょう? 「自分と縁のある土地だから、●●町の方々に」とか「両親を亡くした幼い子どもたちがいるならば、そういう子たちのために役立ててほしい」とか、何かご希望があるのではないかと思います。それを教えていただいたら、参考になる情報をお伝えできるかもしれません。
このブログの右側のほうに、「メッセージを送る」というアイコンがあり、そこをクリックするとメール画面が立ち上がります。なにか思いついたら、このコメント欄でも、メールでも結構ですので、お知らせください。
公務員の給料カットとか、消費税率アップとか、「てっとり早く取りやすいとこから取る」という付け焼刃な対応にウンザリしています。
たとえば、都心の超一等地にある公務員宿舎を国が民間に売却するだけでも、一か所あたり100億円単位のお金が入ってくるわけですよね。ああいう宿舎は何か所もあるので、それらをすべて処分しちゃえばいいと思うんです。なにもあそこまで“職住隣接”にする必要なんてないわけで…。他にも、消費税アップの前にできることがまだあるでしょうに。
被災地のためにいろいろお仕事を作る動きをして下さるとのこと、ありがたいです。何よりもまず、足を運んで見てくれることがありがたい。報道だけでは感じられないことがたくさんあると思うから。
出来れば、うちの町も見て欲しかったけど^^;
さて、さくさんの質問にさちねえもお答えになってますが。
例えば私の住む気仙沼市では、被災者に対する生活支援に使われる「義援金」と、町の災害復旧及び復興事業に使われる「寄付金」と、それぞれ分けて受付をしています。他の市町村も同じように用途を明記して募集しているはずなので、日赤等の他に、応援したいと思った町に直接というやり方もあると思います。
私も今回、知人からのお見舞いの他に、全く見ず知らずの方からというのがひとつありました。普段お世話になっている方の大学時代の友人たちが現地へとお見舞い金を募って、集まったお金をこちらの知人に託してくれたそうで。その方が、自分が地元で被災して応援したいと思った人たちへと分配して下さったそうです。こういうやり方もあるんだなと、ありがたく感心した次第でした。